20代の頃、私はスキーに夢中でした。
SAJ1級を取得し、準指導員の資格を目指して練習していた時期があります。冬になると頭の中はスキーのことでいっぱいで、仕事以外の時間は「どうすればもっと上手く滑れるのか」「どうすればきれいにターンできるのか」ばかり考えていました。
当時のスキーヤーにとって、毎週楽しみにしていた番組のひとつが「SKINOW」でした。
ゲレンデに行けない日でも、テレビの中でトップスキーヤーの滑りを見るだけで気持ちが高ぶったものです。その中で憧れていたスキーヤーの一人が、斉木隆さんでした。
先日、若い頃によく聴いていた杏里さんの曲を耳にして、ふとスキーにのめり込んでいた頃の記憶がよみがえりました。
斉木隆さんは、今どうしているのだろう。
そう思って調べてみると、驚いたことに、斉木隆さんは今もスキーを楽しんでいることを知りました。しかも、両膝の人工関節手術を経て、再び雪上に戻っていたのです。
若い頃に画面の中で憧れていたスキーヤーが、今も雪の上に立っている。
その事実を知ったとき、懐かしさだけではなく、胸の奥に熱いものがこみ上げてきました。
さらに調べていく中で、浅草仲見世の人形焼店「三鳩堂」とのつながりにもたどり着きました。浅草は、私にとっても身近な場所です。私は浅草の今戸で生まれました。
若い頃に夢中になったスキーの記憶と、自分の生まれた場所に近い浅草。その二つが、斉木隆さんの現在を通して、思いがけずつながったように感じました。
この記事では、SKINOWで憧れた元スキーヤー・斉木隆さんの現在、今もスキーを続けている姿、そして浅草・三鳩堂との縁についてまとめます。
斉木隆さんの現在で一番驚いたこと
斉木隆さんについて調べていて、いちばん驚いたのは「今もスキーを楽しんでいる」ということでした。
若い頃にテレビで見ていた憧れのスキーヤーが、今も雪上に立っている。それだけでも心を動かされます。
ただ、斉木隆さんの場合は、単に「昔の有名スキーヤーが今も滑っている」という話ではありません。
ZUICAのインタビューでは、斉木隆さんは元ダウンヒルレーサーであり、デモンストレーターとして紹介されています。21歳の時にワールドカップで転倒し、左足切断の危機に瀕したこと、その後も技術選やデモ選に出場したこと、テレビ番組「SKINOW」の初代レギュラーを務めたことも掲載されています。
さらに、2018年には両膝人工関節手術を決断し、その後3年でスキーを再開したことも紹介されています。

昔、憧れていた人が今も雪上に立っている。それだけで胸にくるものがありました。
スキーに本気で取り組んだことがある人なら、膝がどれほど大切かはよく分かると思います。
ターンのたびに膝を使い、雪面からの力を受け止め、重心をコントロールする。その膝に大きな負担を抱えながら、それでも雪上に戻った。
この事実には、ただ驚くだけでなく、深い敬意を覚えます。
SKINOWを毎週見ていたスキー世代にとっての斉木隆さん
1980年代から1990年代にかけてスキーに夢中だった人にとって、「SKINOW」という番組名は特別な響きがあると思います。
週末になるとゲレンデへ向かい、平日は雑誌やテレビで情報を追い、次に滑る日を楽しみにする。そんな時代に、SKINOWは毎週チェックしたい番組でした。
私自身も、スキーにのめり込んでいた頃、SKINOWを楽しみに見ていました。
画面の中で見るトップスキーヤーの滑りは、ただ速いだけではありませんでした。姿勢、重心移動、ターンの流れ、スキー板が雪面をとらえる感覚。上手い人の滑りには、言葉では説明しきれない美しさがあります。
SAJ1級を取り、準指導員を目指していた頃の自分にとって、斉木隆さんの滑りは「あんなふうに滑りたい」と思わせる存在でした。
当時のスキーヤーにとって、斉木隆さんは単なる有名人ではありません。
スキーが上手くなりたい。もっときれいに滑りたい。そんな気持ちを持っていた人にとって、画面の中の斉木隆さんは、ひとつの目標だったのではないでしょうか。
両膝人工関節手術を経て今も雪上へ
斉木隆さんは、ZUICAのインタビューで、スキーを「100歳くらいまで楽しみたい」と語っています。
この言葉には、競技としてのスキーだけではない、人生の中でスキーと付き合い続ける姿勢がにじんでいます。
若い頃のように何本も滑り続けるのではなく、今は朝の良いゲレンデを数本滑れば十分という趣旨の話もされています。
昔のように、朝からリフト終了まで滑ることだけがスキーの楽しみ方ではありません。
雪の上に立つ。自分の感覚でターンを描く。景色を見て、空気を吸い、仲間と時間を共有する。それもまた、スキーの大きな楽しみ方です。
競技としてのスキーは、非常に厳しい世界です。とくにダウンヒルは、スピード、恐怖心、身体への負荷が桁違いです。ひとつの転倒が大けがにつながることもあります。
斉木隆さんは、その厳しい世界を経験したうえで、デモンストレーターとしても多くのスキーヤーに影響を与えました。そして、大きな手術を経たあとも、再びスキーに戻っています。
この話は、単なるスポーツの話だけではありません。
好きなものと、どう付き合い続けるか。年齢を重ね、身体が変わり、生活が変わっても、自分にとって大切なものをどう残していくか。
斉木隆さんの現在は、そのことを静かに教えてくれているように感じます。
若い頃と同じ滑り方はできないかもしれません。それでも、滑り方を変え、楽しみ方を変え、雪との向き合い方を変えれば、スキーは続けられる。
その姿に、同じ時代にスキーに夢中だった一人として、強く励まされました。
昭和から平成へ向かう時代の空気とスキーの記憶
妻や娘と話していると、自分が10代、20代、30代を過ごした時代のことを思い出すことがあります。
昭和から平成へと移っていくあの時代は、今振り返ると、とても熱のある時代でした。
バブルの恩恵を直接大きく受けたわけではありません。それでも、時代の空気としては確かにその流れの中にいました。
冬になればスキーに向かう。テレビではSKINOWを見る。音楽を聴けば、その頃の記憶がよみがえる。
仲間がいて、目標があって、上手くなりたいと思える対象があった。
今の時代には今の良さがあります。けれど、あの頃にはあの頃にしかない熱がありました。
スキー板を車に積み、ゲレンデへ向かう道中の高揚感。リフト待ちの列。スキーウェアの色。夜に見るスキー番組。好きな音楽と一緒によみがえる冬の記憶。
斉木隆さんの現在を知って心が動いたのは、憧れていた人が今も滑っているという驚きだけではありません。
自分が青春時代を過ごしたあの空気が、今もどこかで続いているように感じたからです。
30年ぶりのテニスで思い出した若い頃の自分
若い頃は、冬はスキーにのめり込み、夏場は体力づくりのためにテニスにも打ち込んでいました。
独身だった20代の頃は、仕事以外の時間の多くをスキーやテニスに使っていたように思います。
けれども、30代になって結婚し、仕事も忙しくなると、少しずつスキーやテニスから離れていきました。
生活が変われば、時間の使い方も変わります。仕事、家庭、日々の責任。気づけば、若い頃に夢中だったものから遠ざかっていました。
そんな中、つい最近、昔の仲間に誘われて、約30年ぶりにテニスをしました。
思うように身体は動きませんでした。体力の衰えも感じました。昔のようには走れないし、反応も遅くなっている。
それでも、いい汗をかきました。
ラケットを握り、ボールを追い、仲間と笑いながら身体を動かしていると、若い頃の感覚が少し戻ってくるような時間でした。



身体は衰えても、夢中になっていた頃の感覚は、意外と心の中に残っているものですね。
だからこそ、斉木隆さんが両膝人工関節手術を経て、今もスキーを楽しんでいることを知った時、単なる懐かしさ以上のものを感じたのだと思います。
若い頃に夢中だったものから離れても、その記憶は消えていない。身体は変わっても、楽しみ方を変えれば、もう一度その場所に戻れるのかもしれない。
斉木隆さんの現在は、そんなことを思い出させてくれました。
なぜ斉木隆さんは浅草で人形焼を始めたのか
斉木隆さんの現在を調べていく中で、浅草仲見世の「三鳩堂」という店の名前にもたどり着きました。
最初は、スキーの世界で憧れていた斉木隆さんが、なぜ浅草の人形焼店につながるのか不思議に感じました。
その背景には、奥様のご実家との関わりがありました。
散歩の達人の記事では、斉木さんが奥様と仲見世通りで人形焼店を始めたのは2002年と紹介されています。
それ以前は、奥様のお父さんが仲見世で高級バッグ店を営んでいたそうです。しかし、時代の流れとともにバッグの売れ行きは次第に下火になっていきました。
そこで考えたのが、バッグに代わる新しい商売でした。
バッグは一度買えば長く使うものです。一方で、食べ物は食べればなくなり、また買ってもらえる可能性があります。浅草という観光地で、人に喜ばれ、繰り返し手に取ってもらえるものとして、人形焼に目を向けた流れがあったようです。
ただ、浅草には昔から人形焼の店が多くあります。その中で三鳩堂が目指したのは、若い人にも食べてもらえる人形焼でした。
生地やあんこを試作し、昔ながらの浅草土産でありながら、手軽においしく食べてもらえる人形焼を目指したことが紹介されています。
つまり、斉木隆さんが人形焼に関わるようになったのは、突然スキーの世界から人形焼へ飛んだというより、奥様のご実家が浅草仲見世で商いをしていたこと、そして時代に合わせて店の形を変える必要があったことが背景にあります。
スキーの世界で第一線を走っていた人が、浅草仲見世で人形焼に向き合う。
最初は意外な組み合わせに感じましたが、背景を知ると、人生の中で場所や役割を変えながらも、人と向き合い続けている姿が見えてきます。
そして、ここで浅草が出てきたことにも、私は不思議な縁を感じました。
私は浅草の今戸で生まれました。
若い頃に憧れたスキーヤーの現在をたどっていった先に、自分の生まれた場所に近い浅草が出てきた。直接の関わりがあるわけではありません。
それでも、スキーに夢中だった20代の記憶と、自分の原点に近い浅草が、斉木隆さんを通して一本の線でつながったように感じました。
三鳩堂で感じた「続けること」の強さ
三鳩堂は、浅草仲見世にある人形焼と雷おこしの店です。
浅草仲見世の公式ページでは、三鳩堂の取扱商品として人形焼と雷おこしが掲載されています。住所は東京都台東区浅草1の37の1で、店頭では焼きたて実演販売も行っていると紹介されています。
人形焼は、こしあん、つぶあんが紹介されており、真空パックのお土産用人形焼も販売していると案内されています。
浅草の人形焼といえば、観光のお土産として思い浮かべる人も多いと思います。けれど、今回の私にとって三鳩堂は、単なる浅草土産の店ではありませんでした。
若い頃に憧れた斉木隆さんの現在を調べる中で、思いがけず浅草につながった場所です。
斉木隆さんのスキー人生と、浅草仲見世の人形焼。一見すると、まったく別の世界のように見えます。
しかし、そこにはどこか共通するものも感じます。
- 好きなことを続けること
- 人に喜んでもらうこと
- 年齢を重ねても、自分の場所で役割を持ち続けること
斉木隆さんが今もスキーを楽しんでいることと、浅草仲見世で人形焼を扱う三鳩堂の存在。
その両方に、続けることの強さを感じました。
斉木隆さんの現在が心に残った理由
斉木隆さんの現在を知って心に残ったのは、単に懐かしかったからではありません。
もちろん、SKINOWを見ていた頃の記憶はあります。SAJ1級を取り、準指導員を目指して練習していた自分も思い出しました。当時の音楽を聴くと、その頃の空気まで戻ってくることがあります。
けれども、今回いちばん心を動かされたのは、斉木隆さんが今もスキーを続けていることでした。
しかも、けがや手術を経て、それでも雪上に戻っている。
若い頃に憧れた人が、年齢を重ねた今も、自分の好きなものと向き合っている。それは、同じ時代にスキーに夢中だった人間にとって、とても励みになる話です。
何かに夢中だった時間は、年齢を重ねても消えません。
普段は忘れていても、音楽や映像、名前、場所をきっかけに、突然よみがえることがあります。
今回、杏里さんの曲をきっかけに思い出したスキーの記憶は、斉木隆さんの現在を知ることで、ただの懐かしさではなくなりました。
今も続いているものがある。
若い頃に憧れた人が、今も自分の場所で続けている。
そのことが、自分の中に眠っていた記憶まで動かしてくれたように感じます。
まとめ
斉木隆さんは、元ダウンヒルレーサーであり、デモンストレーターとしても知られたスキーヤーです。
テレビ番組「SKINOW」の初代レギュラーを務めた人物としても紹介されており、スキーに夢中だった世代にとっては、憧れの存在だった人も多いと思います。
そして現在、斉木隆さんは両膝人工関節手術を経て、再びスキーを楽しんでいることが分かりました。
若い頃に画面の中で見ていたスキーヤーが、今も雪上に立っている。その事実には、大きな驚きと敬意があります。
さらに調べていく中で、浅草仲見世の三鳩堂とのつながりにもたどり着きました。奥様のご実家が浅草仲見世で商いをしていたこと、時代に合わせて店の形を変えていったことを知ると、斉木隆さんの現在がより立体的に見えてきます。
浅草は、私にとっても身近な場所です。スキーに夢中だった20代の記憶と、生まれた場所に近い浅草。その二つが、斉木隆さんの現在を通して思いがけずつながりました。
斉木隆さんの現在は、単なる「あの人は今」ではありません。
好きなことを長く続けること。身体が変わっても、楽しみ方を変えながら続けること。そして、若い頃に夢中になった時間は、年齢を重ねても自分の中に残り続けること。
そんなことを思い出させてくれる話でした。


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