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【なぜ】マスメディアは信用されなくなったのか?ネットで批判される理由|高市発言とオフレコ報道が残した違和感

日本の立場を弱くする報道を誰のためにしているのか?

今回、共同通信などが一斉に配信した「首相官邸筋がオフレコで『私は核を持つべきだと思っている』と述べた」という報道に、強い違和感を覚えた人は少なくなかったのではないでしょうか。

それは核武装論そのものへの賛否以前に、完全オフレコとされた個人の思想が、あたかも政府の公式見解であるかのように報じられた点にあります。

しかも報道のタイミングは、台湾情勢をめぐって日中関係が緊張をはらみ、日本の発言一つ一つが外交的に重く受け止められる最中です。なぜ、今この形で報じる必要があったのでしょうか。そこに、報道の在り方そのものへの疑問が残ります。

目次

オフレコとは何だったのか

本来、オフレコとは「記事にしない」ことを前提にしたやり取りであるはずです。

記者が背景理解を深めるために聞き取りを行い、その内容は書かない。そうした暗黙の信頼関係があってこそ、オフレコは成立します。匿名であっても直接引用しない、政策発言のように扱わないというのが最低限のルールでしょう。

それにもかかわらず今回の報道では、「首相官邸筋」という肩書きだけが強調され、発言の文脈や位置づけはほとんど説明されないまま配信されました。その結果、多くの読者には「政府関係者が核保有を主張した」という印象だけが残っています。

これは、オフレコという前提を事実上無効化し、記者と取材対象の信頼関係を根底から揺るがす行為と言わざるを得ません。

個人の思想と国家の意思は別である

もちろん、発言した側の問題も見過ごすことはできません。

たとえオフレコであっても、核兵器という極めて重いテーマについて、安易に個人の思想を語るべきではなかったでしょう。個人の考えを持つ自由は誰にも否定できませんが、国家中枢に近い立場にある者には、発言の重みと影響を自覚する責任が伴います。

立場をわきまえない発言が行われたとすれば、その点において高官としての資質に疑問が残るのも事実です。しかし、不用意な発言があったからといって、報じ方まで正当化されるわけではありません。発言する側の軽率さと、報じる側の判断は、明確に切り分けて考える必要があります。

日本の立場を弱くする報道

今回の報道が国際的にどのように受け止められるかは、容易に想像できたはずです。

実際、中国側はこの発言を大きく取り上げ、日本の核武装論を誇張する形で報じ、国内向けの反日世論を煽っています。これは偶然ではなく、十分に予見可能な結果でした。

それでも配信されたという事実は、日本のマスコミが「日本の立場がどう見られるか」「外交上どのような影響を及ぼすか」をどこまで意識していたのか、強い疑問を抱かせます。

ここで問うべきは、中国がどう反応したかではありません。その状況を理解した上で、なぜこの形で報じたのかという、日本側の報道姿勢そのものです。

高官による不適切な発言があったとしても、そのまま拡散することだけが報道の役割なのだろうか。
マスコミは、結果として国益を損なう情報について、一定の抑制や判断を働かせる「フィルター」になることはできないのか。
もちろん、虚偽や隠蔽が許されないのは言うまでもない。しかし、事実であっても、報じない、あるいは報じ方を慎重に選ぶという判断は、本来あって然るべきではないだろうか。

質の低下か、それとも構造的問題か

近年、ニュースや記者会見を見ていると、記者の質問の質が著しく低下していると感じる場面が増えました。

感情的な言葉を引き出すことが目的化し、背景や前提を踏まえた問いかけが少ない。外交や安全保障といった高度な分野であっても、その重みを十分に理解しているとは思えないやり取りが目立ちます。

本来、記者の質問は国民の疑問を代弁するものであるはずです。しかし現実には、「炎上しそうな言葉を引き出す作業」に見えてしまうことが少なくありません。

今回の件も、単なる個々の記者の力量不足なのか、それともスクープ至上主義という構造的な問題なのか。いずれにしても、日本の報道全体への信頼を損なう結果になっていることは否定できないでしょう。

誰のための報道なのか

問題は、誰かが特定の国の回し者かどうかという単純な話ではありません。

オフレコの意味を軽視し、国益への影響を想像せず、「出せるから出す」という判断を繰り返す。その姿勢そのものが、今の日本のマスコミに問われています。

日本のマスコミは、誰のために報道をしているのか。読者のためなのか、国民のためなのか。それとも、競争の中でスクープを優先する組織論理のためなのか。

少なくとも今回の報道は、多くの国民に拭いきれない違和感を残しました。その違和感こそが、日本の報道が自らの役割と責任を問い直すべき時に来ていることを示しているのではないでしょうか。

類似の報道

最近では、記者会見の場で自身の見解を繰り返し述べ、大臣から「ここはあなたの意見を語る場所ではない」とたしなめられる例も見られます。
ちょうど似たような事案が有りました。


こうした光景は、報道の現場で何が役割として求められているのか、その認識が揺らいでいることを象徴しているように映ります。

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